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神奈川の旅と歴史
神奈川の旅      横浜市中区

三渓園
さんけいえん
神奈川県横浜市中区本牧三之谷58−1
Tel 045-621-0635


 三渓園は、横浜市の南東部、本牧海岸に沿った山や谷などの美しい自然の起伏をそのまま生かした、広大な純日本式庭園です。
 面積は17万5千平方m(約53000坪)にも及ぶこの庭園は、生糸貿易で財をなした横浜の実業家・原富太郎の手によって精魂込めて造られました。
 富太郎の号が三渓だったため三渓園という名前になりました。美術愛好家として知られ、才能ある多くの芸術家の援助、育成に力を注ぎ日本画壇に多大な影響を与えました。
大池と三重塔
 国宝、孔雀明王像(くじゃくみょうおう)の仏画をはじめとする彼の古美術のコレクションは国内有数を誇りました。その上、古建築の逸品を庭園に配する野望を実現させたのです。
蓮池
 園内には10棟の重要文化財を含む17棟の歴史的建築物が、四季折々の自然の景観の中に巧に配置されています。いずれも京都や鎌倉などから集めた寺塔、殿舎、楼閣、茶室などの名のある古建築の逸品ばかりです。
石棺
 原三渓は原善三郎に婿に入った人物で岐阜県柳津町佐波の豪農青木家の長男でした。早稲田の前身の東京専門学校の学生だったころ、跡見花蹊氏に見込まれ、跡見女学校の先生になれといわれて、習字と歴史、漢文を教えていたそうです。
 そこで原善三郎のひとり娘・屋寿子さんと知り合い大恋愛の末、養子に入ったそうです。原善三郎は横浜開港後3ヶ月後、山林等売り払い埼玉より横浜の地に出て生糸に目を付け郷里や生糸産地を駆け巡り生糸を集め、投機商として頭角を現し財政の基盤を確立した人でした。そして原三渓はそれを大きくした人物でした。
大漁地蔵

鶴翔閣
かくしょうかく
 睡蓮池の山手には鶴翔閣(旧原家住宅)があります。原三渓が明治30年代に自邸として建てた住宅です。近年の復旧整備事業により創建当初の姿に戻されました。
鶴翔閣
 鶴翔閣は楽室棟・茶の間棟・書斎棟・客間棟・仏間棟・倉などの建物群で構成されています。延べ床面積950平方メートルにも及ぶ広大な規模の建物です。横浜市の有形文化財に指定されています。
鶴翔閣
 この建物は居住用と来客用の機能をあわせ持ち、横浜市域の近代和風建築を代表しています。三渓と交流のあった横山大観など多くの文化人が度々出入りした場所として知られています。
鶴翔閣

御門
ごもん
 松並木が続く石畳の道を進んでいくと御門と呼ばれる薬医門があります。この門は京都の西方寺に宝永5年(1708)頃造営されたものです。大正初期に三渓園に移築されました。横浜市の有形文化財に指定されています。
御門

白雲邸
はくうんてい
 御門を入っていくと塀の向うに白雲邸があります。この建物は、原三渓が大正9年(1920)、隠居所として建てた数奇屋風建築です。明治以降における近代和風建築を代表するものといわれています。
白雲邸
 建物の構造は単に居宅としてだけでなく、美術品の鑑賞や接客などの目的を兼ね備えた配置や間取りになっているそうです。原三渓は亡くなるまでの約20年間ここに住んでいたそうです。横浜市の有形文化財に指定されています。
白雲邸

三渓記念館
さんけいきねんかん
 三渓記念館では、三渓園の創設者である原三渓の業績やゆかりの美術品などを紹介しています。また三渓園に関する資料や美術工芸品等も展示しています。
三渓記念館
 「この明媚な自然の風景は創造主のものであって私有物ではない」として、明治39年(1906)から広く一般に公開されるようになったそうです。
三渓記念館
 ロビーでは「三渓園の四季」等のビデオを上映しています。三渓園は現在では財団法人三渓園保勝会の手に移されて復旧工事や保存されているそうです。
三渓記念館


臨春閣
りんしゅんかく
 臨春閣は、紀州徳川家初代の頼宣が、慶安2年(1649)に和歌山の紀ノ川沿いに建てた夏の別荘の一つの厳出御殿といわれています。
臨春閣
 別称桃山御殿ともいわれ豊臣秀吉が築いた聚楽第の別殿で千利休がたずさわったといわれていましたが最近の調査では厳出御殿説が有力なようです。
臨春閣
 徳川8代将軍吉宗は幼時期、この巌出御殿に育ち、享保元年(1716)に将軍になりました。数奇屋風書院造りの別荘建築として、宮家別荘・桂離宮と共に別荘建築の双璧といわれているそうです。
臨春閣
 大正6年(1917)に、三溪園に移築されました。国の重要文化財に指定されています。広い日本庭園の中に建物が3つ連なったような数寄屋橋風書院が構えています。
臨春閣
 外苑は花を楽しむ構成になっていますが、ここ内苑にある臨春閣では古建築と瀟洒な庭が魅力的です。京都・桂離宮とよく対比されるそうです。昭和33年(1958年)の公開まで、原家の私庭だったところです。
臨春閣
 3練の建物のうち第一屋は玄関にあたります。鶴の間、しょう相の間、花鳥の間、台子の間の4部屋あります。
 第二屋は謁見の間です。謁見の控えの間(琴棋書画の間)、謁見下座(浪華の間)、謁見上座(住之江の間)の三部屋があります。右は浪華(なにわ)の間です。狩野永徳が描いています。
臨春閣
 第三屋は家族の部屋になります。2層で上層は矩折寄棟造り、檜皮葺き、下層はこけら葺きです。天楽の間、次の間、三の間、二階の間があります。
臨春閣
 天楽の間です。欄間には本物の雅楽器の、笙、ひちりき、竜笛 大少二本が飾られています。このことから天楽の間と呼ばれているのです。楽器を欄間に飾るとは驚きです。
臨春閣
 次の間です。鎌倉時代、中国から伝えられた禅宗建築には炎の形をした火灯窓が使われました。屋内の壁等にこの形の出入り口を作り火灯口と呼ばれる様になりました。二階に上がる階段口になります。
臨春閣

亭樹
 臨春閣と旧天瑞寺寿塔覆堂の間に架かる橋の中央に「亭樹」があります。檜皮葺きの唐破風の屋根を持った優雅な橋です。パンフレットには亭樹となっていますが元々は「亭しゃ」といわれていたようです。「しゃ」という字は木ヘンに「射」という漢字です。
亭樹


旧天瑞寺寿塔覆堂
きゅうてんずいじじゅとうおおいどう
 天正20年(1592)豊臣秀吉が母の大政所の病気平癒を祈願して京都大徳寺内に天瑞寺を建てました。功験あって平癒したのを喜び、天瑞寺に石造の寿塔を建てました。寿塔とは長寿を祝って生存中に建てる墓のことです。この建物はその寿塔の覆堂です。近年の修理で天正19年の墨書名が発見され、寿塔創建の年代と一致して秀吉の建立したものであることが明らかとなりました。
旧天瑞寺寿塔覆堂
 明治維新の際、天瑞寺は廃寺になり覆堂は洛北の瑞光院、大徳寺黄梅院を経て、明治35年(1902)三渓園に移築されました。なお寿塔は総高9.65尺の石造宝塔で今も大徳寺内、竜翔寺(旧天瑞寺)にあります。 国の重要文化財に指定されています。
旧天瑞寺寿塔覆堂


月華殿
げっかでん
 臨春閣の西側に月華殿があります。この建物は、徳川家康が慶長8年(1603)京都伏見城内に建て、諸大名伺候の際の控室にあてたものと伝えられています。この建物も国の重要文化財に指定されています。
月華殿
 元和6年(1620)伏見城取り壊しの時、宇治の茶匠上村三入に与えられ後に上村家が京都黄檗宗の三室戸寺金蔵院に寄贈し客殿として使われていたものです。大正7年(1918)に三渓園に移築されました。
月華殿

金毛窟
きんもうくつ
 月華殿の奥に続くようにして金毛窟があります。大正7年(1918)原三渓氏によって造られたたった一畳の茶室です。扁額は明治の数寄者、三井の益田鈍翁の書です。
金毛窟
 床柱に京都徳大寺の三門である金毛閣の高欄の手すりをこの茶室の床柱に使っていることからこの名が付いたそうです。
金毛窟


天授院
てんじゅいん
 月華殿の奥、南西に天授院があります。この建物は、鎌倉の建長寺の塔頭である心平寺(しんぺいじ)という廃寺跡にあった地蔵堂といわれています。
天授院
 昭和39年(1964)に解体修理を行い、その際慶安4年(1651)の墨書銘が発見され、健立の年が明らかとなりました。
天授院
 大正5年(1916)に三渓園に移築され、原家ではこれを持仏堂として使っていたそうです。国の重要文化財に指定されています。
天授院


聴秋閣
ちょうしゅうかく
 小さな石橋を渡っていくと聴秋閣があります。臨春閣の西、月華殿の南にあたります。二層の楼閣建築で上層は寄棟造り、下層は入母屋造りです。総こけら葺きです。国の重要文化財に指定されています。
聴秋閣
 この建物はもと三笠閣と呼ばれ、元和9年(1623)三代将軍徳川家光が上洛に際し、佐久間将監に命じて、京都二条城内につくらせたものといわれています。
聴秋閣
 その後この建物は乳母である春日局(かすがのつぼね)に賜り、局はそれを夫の稲葉候の江戸邸内に移したそうです。明治14年(1881)牛込若松町の二条公邸に移築され、大正11年(1922)三溪園に移築されました。
聴秋閣

 瓢箪文手水鉢(ひょうたんもんちょうずばち)です。豊臣秀吉が愛用していたと伝えられる手水鉢です。
瓢箪文手水鉢


春草濾
しゅんそうろ
 聴秋閣の南には春草盧という茶室があります。この建物は、もと京都黄檗宗の三室戸寺金蔵院にあった月華殿に付属して立てられていた茶室です。原三渓が荒廃していた月華殿と共に奈良の骨董商を通じて買い取ったものです。
春草廬
 織田信長の弟・織田有楽斉が建てたものと伝えられ三畳の茶室です。窓が9つあるため九窓亭と呼ばれていたそうです。座敷造りから茶屋造りへ移る過渡期のものとして注目されます。国の重要文化財に指定されています。
春草廬

蓮華院
れんげいん
 竹の中の小径に蓮華院があります。旧天瑞寺寿塔覆堂の南東になります。大正6年(1917)に原三渓が建てた田舎風茶室です。井上馨や小林古径も訪ねたそうです。
蓮華院
 六畳と二畳中板の茶室があります。土間と壁には宇治平等院鳳凰堂に使われていた太い円柱と格子があります。軸は江戸後期の名僧、仙黒Mの写しで「これ喰ふて茶にまゐれ」と書かれています。大徳寺高桐院の剛山和尚の筆によるものだそうです。
蓮華院

南門
 海岸門とも呼ばれる南門です。長く閉鎖されていましたが平成11年(1999)11月に出入りできるようになりました。
南門

松風閣
 結構急な坂道を登って、鬱蒼とした笹藪をくぐり抜けると、二階が見晴台になっている松風閣があります。それほど景色は良くなく石油コンビナートの煙突と大小タンクの林立でした。
 松風閣から旧燈明寺の三重塔へいく山道の途中に出世観音の石仏が鎮座していました。


旧燈明寺三重塔
きゅうとうみょうじさんじゅうのとう
 三溪園のシンボルのように中央の山上に建つ三重塔は、燈明寺にあったものを、大正3年(1914)3月に移築したものです。燈明寺は聖武天皇の勅願により僧行基によって天平7年(735)に開創されたといわれていますが現在は廃寺となっています。近年まで京都府相楽郡(そうらく)加茂町に所在した日蓮宗の寺院だったそうです。
旧燈明寺三重塔
 燈明寺は貞観5年(863)に清和天皇の勅願寺となり、南北朝の動乱で荒廃後、康正3年(1457)に天台宗の寺院として再興したようです。三重塔もその時に再建されたようです。瓦葺の三重塔で、純粋な和洋からなっていて、禅宗様の影響は全く受けていません。関東地方では最古の塔です。国の重要文化財に指定されています。
旧燈明寺三重塔
 寺号は当初竜王国山観音寺だったそうです。東明寺と改めましたが、寛文元年(1661)に日蓮宗へ改宗した際、東明寺から燈明寺に改めたそうです。鬼瓦は各重、各隅で異なりますが、瓦の先端の紋様は東明寺になっています。
旧燈明寺三重塔
 尾垂木、通肘木、組み物等の部材は太くがっしりとした作りになっています。終戦間近い昭和20年(1945)6月の空爆により至近弾を受け爆風や弾片で損傷を受け昭和29年(1954)に修復されています。
旧燈明寺三重塔
 園内ほぼ中央の小高い山の頂上に切石積の基壇を築きさらに縁を設け建てられています。園内各所から見られ、まさに三渓園のランドマークになっています。
旧燈明寺三重塔

初音茶屋
はつねちゃや
 旧燈明寺三重塔から下ってくると初音茶屋があります。茶屋の真ん中には囲炉裏が有り、昔はここで香煎や白湯を振る舞っていたそうです。現在では観梅会の期間中のみ古釜で沸かした麦茶が出されるようです。
初音茶屋
 インドのノーベル賞文学者タゴールや芥川龍之介らもここを訪れて書きしるされています。芥川は、大正4年(1915)ここでの印象を
  「ひとはかり うく香煎や 白湯の秋」
 と俳句に残しています。
初音茶屋


旧東慶寺仏殿
きゅうとうけいじぶつでん
 東慶寺は弘安8年(1285)北条時宗の妻覚山尼が創建しました。駆込寺あるいは縁切寺として有名だったそうです。明治40年(1907)に東慶寺の仏殿は三渓園に移築されました。国の重要文化財に指定されています。
旧東慶寺仏殿
 仏殿の建立年代は明らかではありませんが、寺は永正6年(1509)に火災にかかり焼失しました。仏殿の形式手法は室町時代のものなのでその直後に再建されたものと推定されています。
旧東慶寺仏殿
 仏殿の基本的な形式は、中世の中規模禅宗様仏殿と同じですが、組物は簡略化され、また、内部は一面に格天井を張るなど、江戸期の好みも随所に見られます。しかし、全体的に室町期の様式を色濃く残しています。
旧東慶寺仏殿


旧矢箆原家住宅
きゅうやのはらけじゅうたく
 岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にあった合掌造の家です。江戸時代の宝暦年間(1751〜1764)飛騨3長者の一人といわれた庄屋の矢篦原佐助の家として使われていたものだそうです。
旧矢箆原家住宅
 御母衣ダムの建設によって湖底に沈む運命になりましたので、所有者矢箆原家から三渓園に寄贈され、昭和35年(1960)に移築されました。国の重要文化財に指定されています。
旧矢箆原家住宅
 屋根の木組は"さす"と呼ぶ丸太を掌を合わせたように左右から組んでつくるので、合掌造りといわれています。建物は左半分が式台玄関をもつ書院造り、右半分が一般農家の造りです。代官などの賓客を迎える客座敷もあります。部屋との境には櫂に錨、扇面散らしなど、くだけた透彫の欄間彫刻がはめられています。
旧矢箆原家住宅

横笛庵
よこぶえあん
 寒霞橋を渡った所に横笛庵があります。古材を寄せてつくられた田舎風の茶亭です。横笛は高倉天皇中宮、建礼門院に仕えました。平重盛の家臣、滝口入道(斎藤時頼)との悲恋は有名です。
横笛庵
 横笛は寺にこもって入道から送られた千束の恋文をもって己の像をつくりました。その像がこの庵に安置されていたのです。第2次大戦中に被害を受け失われてしまったそうです。高山樗牛の明治中期における浪漫主義文学を代表する小説「滝口入道」も有名です。
横笛庵
 横笛の舞を見たことがきっかけで恋に落ちた斎藤時頼は親にも反対され出家して「滝口入道」になり、京都の滝口寺で修業します。在り処を聞きつけ横笛が訪ねてきます。
 入道は居留守を使い追い返します。横笛が立ち去ろうとする時、血で歌を書いた「歌石」に「山深み思い入りぬる芝の戸のまことの道に我れを導け」と言い残します。横笛も出家し、法華寺の尼になったとも、大堰川に身を投げたともいわれています。
寒霞橋


旧燈明寺本堂
きゅうとうみょうじほんどう
 燈明寺は聖武天皇の勅願によって天平7年(735)に開創されたといわれています。燈明寺は現在廃寺となっていますが近年まで京都府相楽郡加茂町に所在した日蓮宗の寺院だったそうです。
旧燈明寺本堂
 建武の兵乱で廃絶しましたが、康正年間(1455-1456)、天台僧忍禅が復興し、本堂と三重塔を建立したようです。この本堂は、様式上、室町時代初期に建てられたものと推定されています。
旧燈明寺本堂
  明治34年(1901)川合芳太郎が燈明寺を買収しました。そして大正3年(1914)三渓園に移転したのです。堂内の春日厨子は国内最大のものだそうです。国の重要文化財に指定されています。
旧燈明寺本堂

三渓園天満宮
さんけいえんてんまんぐう
 三渓園天満宮はもとは間門天神といわれていました。三渓園にほど近い間門の旧家高梨家の先祖が本牧の丘の中腹に建てたものだそうです。昭和52年(1977)三渓園に移されたそうです。
三渓園天満宮

 大池に架かる観心橋からは涵花亭がみえます。欄干から下を見てみるとたくさんの亀がのんびり泳いでいました。
観心橋
 三重塔が美しく映える大池には船が一隻ぽつんと浮かんでいました。鴨たちが無人の船を操っているようでした。



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