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神奈川の旅と歴史
神奈川の旅      小田原市

小田原城
おだわらじょう
神奈川県小田原市城内6−1
Tel 0465-23-1373


 治承4年(1180)石橋山合戦で頼朝の危機を救ったのは土肥氏でした。土肥次郎実平の嫡男遠平が戦功をたて早川荘の総領所になって小早川村(小田原市)に築城しました。それが小田原城の始まりだといわれています。
 応永23年(1426)、上杉禅秀の乱が鎌倉で起きました。大森頼春は鎌倉公方足利持氏を助け、小田原・箱根で 禅秀の軍を破り、乱を平定する功績をたてました。禅秀派の土肥・小早川氏は小田原を追われ、大森氏が入城しました。
 大森氏は5代80年続きました。氏頼の時は全盛で関東を掌握し、文化的にも繁栄しました。しかし、明応4年(1495)氏頼は突然、北条早雲の奇襲により小田原城を去りました。
 北条氏は早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の5代約100年続きました。この北条氏は、鎌倉執権の北条氏と区別し、後北条氏あるいは小田原北条氏と呼ばれました。
銅(あかがね)門
 北条氏は高さ27mの3層大天守と小天守の複合天守を有する小田原城を中心に地域を拡大しました。最盛時には、外郭は城下町を含み東西3km、南北2.2kmに及びました。3代氏康は永禄4年(1561)に上杉謙信の攻撃を受けました。同12年には武田信玄の攻撃も受けたのですがこれを退けました。小田原城が難攻不落の名声が上がりました。
常磐木門(ときわぎもん)
 天正18年(1590)豊臣秀吉は小田原を攻めました。小田原城はビクともしませんでした。秀吉は小田原城西方の笠懸山に石垣山一夜城を築いたり酒宴を開いておびき寄せようとして21万の兵で包囲しましたが小田原は落ちませんでした。
 城内の様子は「北条五代記」に残されています。後に「小田原評定」という優柔不断の論議が繰り返されていたのでした。出撃して秀吉を撃つか、籠城して迎え撃つか延々と軍議が続けられたのです。
 そして、城主氏直は籠城100日もむなしく、ついに秀吉に投降したのでした。数倍の大軍と秀吉の近代的な戦法に屈服したのでした。100年の間、繁栄を誇った小田原北条氏は滅亡しました。4代氏政は切腹させられ、5代氏直は家康の娘を側室に迎えていたことで高野山に流され死は免れました。
 小田原征伐後、城は徳川家康の城となり、大久保氏が入封しました。慶長19年(1614)城代が変わると、家康の命によって城は破却され、三の丸以内に規模が縮小されたのでした。阿部氏、稲葉氏らが入城した後、貞享3年(1686)に大久保忠朝が入城し、以後、大久保氏が治めました。
 城は何度か大地震に遭い、天守倒壊などの被害を受けました。天守は宝永3年(1706)に再建され、明治3年(1870)に解体されるまでは往時の姿のまま存続していました。昭和35年(1960)に復興された38.7mの天守閣が現在は建っています。
 小田原地方は、江戸時代に6回も大地震に見舞われて、天守閣もその都度、大きな被害を受けたようです。北条氏直の時に建てた天守閣は、寛永10年(1633)の地震で崩壊しています。その年に再建されましたが、そのときのものが現在の天守閣の原形となっているそうです。



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