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茨城の旅と歴史
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土浦城址(亀城公園)
つちうらじょうし(きじょうこうえん)
茨城県土浦市中央1−13
Tel 029-824-2810 (土浦市観光協会)


 土浦城は、亀城(きじょう)ともよばれ、平城で、幾重にも巡らした濠を固めとする水城でした。江戸時代の建物としては、本丸表門の櫓門、裏門の霞門、二の丸と外丸の間に移建された旧前川門があります。東櫓・西櫓は平成になって復元された櫓です。
 平将門が土浦城を築城し、一族の大掾氏が土浦市一帯を支配したといわれていますが、永享年間(1429-1441)に常陸守護、八田知家の後裔、豪族の小田氏に属する若泉(今泉)三郎が土浦城を築城したという記録が残っています。
 永正13年(1516)、城主であった若泉五郎左衛門は、小田氏の部将・菅谷勝貞によって城は奪われました。その後、小田氏は上杉・佐竹勢に徐々に圧迫され、永禄12年(1569)小田城を逃れて土浦城に入りました。その後、小田城を奪回したりしましたが、天正13年(1583)、ついに小田氏治は佐竹氏の軍門に降りました。
 天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原の役の際に北条氏についた菅谷範政は佐竹氏や徳川家康の軍勢に攻められ、主君小田氏とともに滅亡しました。関東に入った徳川家康は、次男の結城秀康に土浦城を治めさせました。
 秀康が越前国北ノ庄に移ると、藤井松平家の松平信一が3万5千石で入封します。元和3年(1617)、松平信吉が上野国高崎に転封となると西尾忠永が2万石で入封します。以後、朽木氏に代わり、寛文9年(1669)、土屋数直が4万5千石で入封します。
 土屋氏は、子の政直のときの天和2年(1682)駿河国田中に移り、大河内松平家の松平信興が5年間、土浦城に在城後、貞享4年(1687)に大坂城代になります。寛文9年(1669)再び土屋政直が6万5千石で戻りました。
 その後、土屋氏は3度の加増を受けて9万5千石の大領地を支配し、以後土屋氏が11代続き明治維新を迎えます。10代土屋挙直の時に版籍奉還、廃藩置県になり、明治6年(1873)に土浦城は廃城となりました。本丸跡は土浦県庁、新治(にいはり)県庁、新治郡役所、自治会館などに利用されました。現在は二の丸跡の一部とともに亀城公園となっています。
本丸跡

 土浦城旧前川口門は、高麗門とも呼ばれ、かつての二ノ丸門の位置に移築されています。文久2年(1862)の建造で、本丸北東方向の多計(たけ)郭東面の前川口門跡にあったものです。その場所は町屋との仕切門であり、搦手門に通ずる要所でした。旧土浦町役場の門、等覚寺の山門に移築され使用されていましたが、現在地に移築されています。
土浦城旧前川口門

 本丸櫓門は太鼓門と呼ばれ、本丸跡に残る城門です。明暦2年(1656)に城主朽木稙綱が建てたものです。桁行3間・梁間2間、入母屋造りで本瓦葺きです。両側に切石石台をもつ二層の櫓門です。かって2階の屋根裏に、時刻をつげる大太鼓が置かれていたため太鼓櫓といわれました。江戸時代前期の本丸内櫓門としては関東地方では唯一のものです。
太鼓門



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