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茨城の旅と歴史
茨城の旅      水戸市

水戸城址
みとじょうし
茨城県水戸市三の丸
Tel 029-224-1111


 水戸城は、建久4年(1193)、源頼朝から地頭馬場資幹がこの地を賜り、大掾(だいじょう)に任ぜられたのに始まります。以後、馬場大掾氏は9代約240年間この地を治めました。
 15世紀のはじめ、那珂通辰の子孫で河和田(かわだ)城主の江戸通房が馬場大掾満幹を追放して居城しました。そして城郭を拡張して160年間水戸地方を支配しました。天正18年(1590)太田城の佐竹義宣が江戸氏との戦いに勝利し、水戸を本拠としました。
 佐竹氏は城の出入り口を東側から西側に移し、橋詰門を建てました。二の丸に大手門を造り、本丸、二ノ丸など曲輪を造り上げました。54万石を有した佐竹義宣でしたが関ヶ原の戦いで石田側についたため慶長7年(1602)、秋田に減封されてしまいました。
 その後、慶長7(1602)に下総佐倉城から家康5男の武田信吉が入封しますが、翌年に病死します。その後、家康10男の頼宣が入封しますが駿河に転封します。(後に紀州徳川家の祖となります)慶長14年(1609)に第11男の頼房が下妻城から封ぜられ水戸徳川家が誕生しました。2代藩主光圀(みつくに)、9代藩主斉昭を経て、11代藩主昭武(あきたけ)まで260年、35万石の水戸領を治めました。
 水戸城には天守閣や石垣はなく、二ノ丸に館と三階櫓(やぐら)がありましたが、明治5年(1872)の火災や昭和20年(1945)の戦災で全焼しました。現在は本丸跡・二ノ丸の入口など3ヶ所の土塁と濠が県指定史跡となっています。

 旧水戸城薬医門は、旧水戸城に現存するただ一つの建造物です。旧本丸跡の県立水戸一高敷地内に移築復元されています。正面の柱の間が3つ、出入口は中央だけの3間1戸の薬医門、2つの脇扉がついています。昭和58年(1983)に県の有形文化財に指定されています。
旧水戸城薬医門
 本丸の表門である橋詰御門ではないかと推察され、佐竹氏の時代に創建され徳川氏に引き継がれたものといわれています。安田初代県知事が自宅にこの門を移築し、豪商の小山田氏が安田邸を買取り、祇園寺に移築された後、水戸市に寄贈され、昭和56年(1981)現在地に移されました。
旧水戸城薬医門

 「大日本史編纂の地」という石碑が三の丸・彰考館跡に建てられています。「大日本史」は、 中国の「史記」に匹敵するような歴史書を日本にも作ろうと、水戸藩第2代藩主・徳川光圀が明暦2年(1657)から編纂を開始したものです。光圀が水戸に隠居してからは三の丸の彰考館で行われました。完成したのは250年後の明治39年(1906)でした。
大日本史編集石碑



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