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茨城の旅と歴史
茨城の旅      水戸市

偕楽園
かいらくえん
茨城県水戸市常盤町1−3−3
Tel 029-244-5454


 梅の公園として有名な偕楽園は、水戸第9代藩主徳川斉昭が、天保13年(1842)に造った庭園です。金沢の兼六園、岡山の後楽園とともに、日本三公園に数え上げられています。
 偕楽園は孟子の「古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節から取ったもので、徳川斉昭が命名しました。
 天保10年(1839)に「偕楽園記」が斉昭の自撰自書で書かれ、天保12年(1841)から造園工事が始まり翌年に完成し開園しています。偕楽園は千波湖を望む七面山に造られ敷地の東側を梅林、西に竹林と杉林、それら望む位置に好文亭が建てられました。
 偕楽園は単に美しい庭園を楽しむというだけではなく、藩校である弘道館の付属施設の性格も持っていました。弘道館が文武修行の場であるのに対して、偕楽園は修行の余暇の休養の場とされたのでした。
斉昭は水戸藩の江戸藩邸の梅の実を採ってきて偕楽園に梅を植えたようです。この梅は鑑賞だけでなく、飢餓に備えると同時に万一の戦いの時の非常食にもなったようです。
民と偕(とも)に楽しむ偕楽園は領民にも開放され、毎月「三」と「八」が付く日は入場が許されたそうです。明治維新後に国有地となり明治6年(1873)に「常磐公園」の名で一般公開され今日に至っています。
 約13ヘクタ−ルの庭園には、100品種約3000本に及ぶ梅林や桜、紅葉、孟宗竹、霧島つつじ、宮城野萩などがあり、観梅、紅葉の人々で賑わいます。 当初の広さは、現在の常磐神社の境内を含み14万7000平方mありました。
 園内には二季咲桜という桜もあります。シキザクラ(和名)の仲間で、秋から冬にかけてと、春に咲く桜です。初代の樹は水戸藩士久米某邸内にあったものを移し植えたと伝えられています。
 平成11年(1999)に隣接する千波公園などとあわせて名称を「偕楽園公園」となりました。面積は合計300ヘクタールになり、都市公園としてはニューヨーク市のセントラルパークに次いで世界第2位の広さがあります。


 吐玉泉の湧水は、茶室何陋庵(かろうあん)の茶の湯に供用されました。 昔からこの場所には湧水が出ていて、眼病に効くといわれていたそうです。周りの景色に合うように真弓山の寒水石といわれる大理石で造られています。今まで一度も水が枯れたことはないそうです。
吐玉泉

 太郎杉と呼ばれる樹齢760年といわれる杉の巨木が吐玉泉のすぐ近くにあります。夫婦杉のように根本から2つに分かれていますが右側の杉です。杉は昔から一種の神聖な樹木と考えられ、神社などに多く植えられています。
太郎杉

 正岡子規の句碑があります。

 崖急に
  梅ことごとく斜なり

 明治時代の俳人正岡子規が偕楽園を訪れた際、南崖の梅を詠んだものです。
正岡子規の句碑

 僊湖暮雪(せんこのぼせつ)の碑は烈公の書です。中国の瀟湘(しょうしょう)八景になぞらえ、水戸藩内の景勝の地を8ケ所選び、水戸八景と定めました。青柳夜雨・太田落雁・山寺晩鐘・広浦秋月・水門帰帆・村松清嵐・僊湖暮雪・厳船夕照の8つで、偕楽園は「僊湖莫雪」に選定されていました。
僊湖暮雪の碑


好文亭
こうぶんてい
 好文亭という名前は、梅の異名である「好文木」(こうぶんぼく)から命名されたそうです。中国の故事「文を好めば則ち梅開き、学を廃すれば則ち梅開かず」が基になっています。
 好文亭は水戸藩の第9代藩主・徳川斉昭により偕楽園内に詩歌の会や茶会などを催すために建てられたそうです。斉昭自らその位置や建築意匠を定めたといわれています。
 2層3階の好文亭と北につながる木造平屋建ての奥御殿から成り立っています。一般に全体を総称して好文亭と呼んでいます。
 派手さのない質素な,質実さと優雅さが調和した心和む伝統建築です。ここに文人墨客や家臣、領内の人々を集めて詩歌や慰安会を催しました。
  奥御殿には菊の間、桃の間、つつじの間、桜の間、萩の間、紅葉の間、松の間、竹の間、梅の間、清の間の10室あります。
  奥御殿は茅葺きの平屋の建物です。好文亭の奥にある御殿で、襖に描かれた四季の優雅な絵が迎えてくれます。
 松の間は奥対面所で、紅葉の間は、次の間です。藩主婦人や、高貴の方々の座所で、紅葉の間との間には入側をもって隔てています。
 桜の間、つつじの間、萩の間は、藩主夫人が城中から好文亭に来られたとき、お伴の御殿女中が休息した部屋です。
 竹の間、梅の間、清の間(せいのま)の3室の1棟は、明治2年(1869)に水戸市柵町にあった中御殿の一部材料を運び奥殿に増築したものです。
 好文亭は昭和20年(1945)の水戸空襲により焼失しましたが、昭和30年(1955)から3年かけて復元されました。奥御殿は昭和44年(1969)、落雷により再び焼失し、昭和47年(1972)に復興されています。
 好文亭と奥御殿とを結ぶ通路はとても狭く作られています。これは武器を持った敵が乱入した際、その動きを封じるねらいがあったようです。
 廊下の左側に篠で作った格子窓があります。外からは窓であることが判らないように工夫されています。
 茶室「何陋庵(かろうあん)」は、亭の西北に位置しています。床柱は、島津斉彬から贈られたつつじの巨木が使われています。
 好文亭は名建築で随所に数奇屋的趣向が見られます。建材も吟味され3階の楽寿楼からの景色は千波湖が一望できます。



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