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群馬の旅と歴史
群馬の旅      高崎市

高崎城跡
たかさきじょうせき
群馬県高崎市高松町1
Tel 027-321-1257 高崎観光協会


  高崎城の地には、平安時代末期に豪族和田義信が築城した和田城と呼ばれる城がありました。室町時代になると和田氏は関東管領の上杉氏に帰属していましたが、永禄4年(1561)城主和田業繁は武田信玄に従いました。その後、息子の和田信繁は、北条氏に属し、天正18年(1590)に北条氏が滅ぶと領地は没収されました。
 徳川家康が関東の領主になると高崎市周辺は徳川四天王の一雄・井伊直政が12万石で入封し高崎藩を立藩します。当初箕輪城を居城としましたが慶長3年(1598)に高崎城に移しています。
  この地は中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要衝です。高崎城は南北に流れる河川を自然要害に、旧和田城を城地の一部に取り込んだ典型的な平城です。
 本丸を中心に西の丸・榎郭と輪郭式で構成、二の丸・三の丸は梯郭式縄張で本丸を囲む形を持ち、更に、総構えと呼ばれる堀と土塁で城下町を囲む広大な城域でした。箕輪城から多くの構築物を移し、全ての城郭が完成したのは、寛文4年(1664)頃といわれています。
  井伊直政は2年余り在城しましたが、慶長6年(1601)、近江佐和山城(彦根市)へ転出しました。その後、酒井家、戸田松平家、藤井松平家、安藤家と城主が入れ替わっています。
  元和5年(1619)に入城した安藤重信は城の改修に着手しました。以後、3代77年間をかけて大改修され近代城郭が整備されました。 寛永10年(1633)、3代将軍徳川家光の命により、この城に幽閉されていた弟の徳川忠長がここで自害しました。
  その後、柳沢吉保とともに5代綱吉政権の片腕であった松平(長沢・大河内)輝貞、6代家宣・7代家継の側用人の間部詮房と続き、再度、松平輝貞が8代吉宗に用いられ、老中として返り咲き在城しました。そのまま松平(長沢・大河内)家は10代、約150年続いて明治維新を迎えています。明治4年(1871)廃藩置県により高崎城は廃城となり、建造物は移築、破却されていきました。



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