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群馬の旅と歴史
群馬の旅      利根郡みなかみ町

名胡桃城址
なぐるみじょうし
群馬県利根郡みなかみ町下津
Tel 0278-62-2275 みなかみ町教育委員会


 名胡桃(なぐるみ)城址は、昭和24年(1949)県指定史跡になっています。天正6年(1578)沼田城は北条氏の手に落ちました。当時武田氏の家臣であった真田昌幸は沼田城奪取のための要塞としてこの名胡桃城を築きました。本丸跡には石碑が立っています。
  天正7年(1579)、北条勢は2度名胡桃城を攻めましたが敗退し、その翌年真田氏はここを拠点として沼田城を攻め攻略したのです。真田領の岩櫃城と沼田城の中継地として重要な城であったようです。本丸、二の丸、三の丸、袖曲輪、遠見櫓、般若曲輪等がありました。
 天正10年(1582)、豊臣秀吉と対立した徳川家康は次女の督姫を北条氏直に嫁がせ、北条氏と和議を結びました。その際、真田の上州沼田領を北条氏に渡し、北条領の都留、佐久を手放すというものでした。
 武田滅亡後、徳川家康に組みしていた真田昌幸はこのことに怒り、家康に反旗を翻しました。沼田領を北条氏に渡さず上杉景勝を頼りました。激怒した家康は、天正11年(1583)上田を攻めました。これが上田城・神川の戦いです。
 その後、豊臣秀吉の支配下に入った真田昌幸は秀吉の仲裁の裁定を受け入れ沼田城を北条氏に明け渡しました。小牧・長久手の戦いで家康に敗北した秀吉を見て北条氏は名胡桃を含めて沼田領のすべてを手に入れようとしました。
 沼田城代猪俣邦憲は真田昌幸の偽書状を作り名胡桃城主の鈴木主水重則を上田に向かわせました。そしてまんまと名胡桃城を奪取したのでした。昌幸はこのことを秀吉に訴えました。
 これを聞いた秀吉は激怒しました。そして北条の不信をなじり小田原征伐の軍を起こしたのです。名胡桃城は北条氏滅亡のきっかけとなった城なのです。



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